「上野家」由来話
- 後編 -

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 遠い道端の大木の根方を見ると2人の武士が休んでいる。段々近づくとなんと相良と上野であった。ようやく追いついたのである。2人は権左エ門を見て夢かとばかり驚いた。
 大阪城で戦死か切腹したものと思いこみ、待ち合わせることもなく東国さして出発したのである。見るからに痛々しい程の手傷で、権左エ門のような身分の高い人が、なぜこれほどの傷を受けたのか。彼ほどの使い手が深くはないようだが、八つ裂きという傷を受けているのには、目をそむけるというよりも只呆れて、生きて逢えただけが2人にとっては、まだしもであった。今まで上の方から歌ってきた人とはどうしても考えられない、なるほど、勝っても負けても大阪を引き上げ、籐堂家へ帰らず山へ暮らすと云ったことがある。それ程山が良いのだろうか。木曽で待っていて気のすむまで阿弥陀堂に居て、木曽の檜と共に何百年も老先生に仕えて、3人兄弟のように暮らせばよかった。あてもない東国をさし、これから落人と云う身の狭さを世にさらすと思えば、相良も上野も無言のままであった。しばらくして権左エ門にその傷のいわれを尋ねると、傷の少ない左手でさえ7箇所の傷、右はなますのような傷、それを見直しながら語るところを要約すれば城外の戦いに破れ城に引き上げてきた軍兵は城を枕に死守するような配備についたが、これも怪しくなり大手すらも大筒のために崩れはじめたので、殿の手兵まで集めて50人足らずを大手へ向けた。
 敵は強豪の武者10数人を第一線に、第二線、第三線ち荒武者を揃え、続く新手に備え何重もの構えで切り込んでくるので、味方は後ろ後ろへと引きはじめる。
 これを見てとった権左エ門は、甲斐性なき者共よとばかり、老を忘れて大手へ入れてなるものかとばかりに立ち上がり、霜柱のような白刃の中へ飛び込んで最前線の強いのを、見る見るうちに4,5人切り飛ばす。肉を切らせて骨を切るなどは今日の戦法に通用しない。骨を切らしても多くの骨を切るのが今の戦法なのである。続いて更に10数人を右と左に切り倒しては進んでいく。これに力を得た味方は一時は盛り返した。そのうち古今未曾有の大乱戦となり、敵味方の区別も付きかねる程、肘と肘が擦れ合う程の乱戦になったのである。逃げる雑兵などを切っても仕方がないので、豪敵を求めて右よ左と切り開き前進して行くと、敵はうすらえ、だんだんに広くなり左右に道を開きはじめて、逃げて町方に出てしまった。そこで天王寺の高台に登り大阪城を望むと白旗があがり、落城していた。
 これを見ると一気に気抜けがして疲れが出たので、その場に崩れるように倒れ気が遠くなった。ほどすぎて気が付いた時には、戦後のことで、あたりには人影もなく、ただ悪夢から覚めた如くであった。身体のどこを見ても生傷だらけで夢でなかった。そのうちに、我に返り手当をしてくれた道具屋の具足びつを求めたのが、この時の大一番のものだという。なるほど権左エ門は大男なので、このくらい大きくなかったら、鎧兜が入るまいと笑った。この時初めて笑ったのであるが、郎党はこの図抜けて大きな具足びつのために度外れた苦心をしたので、恨めしげにこれからも重い荷物を背に共をするのかと泣きべそものであった。
 そこへいくと、相良の武具は以外に軽く、刀もその時代としては細身のほうで、権左エ門は大男に2尺9寸の豪刀、それを鮮やかに使いこなした。上野は鎖帷子(くさりかたびら)に名刀本という身軽さの小男であり、老勇の世話をしつつ東へ東へと道を急いだ。

 武蔵も山間部を過ぎて大平原に出た。4人ともその広さに驚き、広い広い幸先を喜んだ。人家も少しは増し、村を成し里を作るなどして伊賀の上野に似ているところまで来た時に相良は永住の地を物色していたが、地味が良くて3人が住めるような場所を見つけては2人に問いかけてみたが、3人が良いという場所はなかなか見つからなかった。
相良は落ち着いていたら、農で暮らすつもりなので土地のよく肥えた所へ来ては当たりの具合を見回していた。権左エ門はひどく疲れているためか、少し気過ぎたくらいだと云い、身分が良いから江戸へ近づくのを嫌った。上野は江戸の片隅がいいと云い出したのが2人はこれに反対した。名ある者が江戸の近くに住むのは、徳川方の目に付きやすいので再起を図るのに都合が悪い。あれこれしているうちに、江戸へ近づき、地味の素晴らしく良い練馬の北を流れる田柄川に出た。相良は、これほどの土地を見逃すはずがない。左に見える地蔵堂で休もうと云い出した。この辺は田柄と云う地名なので、落城の時に申し合わせた自分の氏に似た地名なので権左エ門も気に入り、これから江戸に近づくのをひどく嫌った。尚、権左エ門は後の愛宕神社は武人の神なので参拝をすると云って、石段を登り始めた。彼は生まれついての武人なので尾羽打枯らしてもなお武士(もののふ)と云うものに未練があった。
 2人は権左エ門を残して三刻ほど近くの様子を見回って帰ってくると、不思議なことに常に無口な権左エ門が行者と話しをしている。それが会ったばかりとは思えない親しさである。その行者の話では、彼が日本国中廻ったが、この辺の人ほど義理人情に厚いところがなかったので、この地に住みついたと云う(昭和の今でも田柄では義理人情に重きを置く人が多い。これは三武人の教化や血統によるらしい)。
 「皆様も行き先が定まらぬのなら私どもに宿り、この辺の様子を見定めて、永住なされては如何です。私には子も孫もない一人者ですが、お茶の相手ぐらいさせていただきます。見苦しい行堂ではありますが、一時は間に合うかと存じます」とねんごろに云われたので、渡に舟と3人は大いに喜び、云われるままの厚意を受け、行堂にわらじを脱いだ。
 権左エ門は戦いと旅の疲れを休め、傷の手当も終わり、改めて行堂を買い受け、良き友を得たので茶をたてたり話も良くあった(後にこの行堂で近所の若い者達に、剣道や手習い、儒学の講義をした)。
 上野は行者の家から北へ500歩程の小高い所へ昇って、住むにはここだとばかりに悦にいって喜んでいた。相良は上野に注意を加え、土地が良くないぞといったが、彼は忍者なので江戸との間に狼火の見える高所に定めたのである。その建てた家は質素なものであるが、忍者だけに白木造りの栂松(つがまつ)柱であった。
 相良はこのあたりで一番土地の肥えている田切(たぎり)にほど近い、上野の西へ200歩位のところに農家向きの中位の家を建て、農業に打ち込んで田畑を手に入れよく稼いだので、この家は多くの分家を造り、それが皆栄えたので、土着20軒、現在外に出たものを含め100軒を越す。これは彼が勘定方であったことが先見の明となった。彼は役持の頃から乱世には、何が金に代わるかを心得て、べっ甲、珊瑚、漆などを蓄えていたという。大阪の戦の一部の金を持って、落人となったらしい考えられる(今も栄える上野家の多くの主人は、時に合わせて利することに抜け目がなく先見の利くのは、祖先の血をひいたものらしい)
 左柄も相良も練馬の田柄に来てから上野を氏として、3人が兄弟というふれこみで、前住地の上野の地名を氏とした。前の氏に似た地名の田柄に住みついたのである。

 戦国の世を一時は太平にした豊臣の後を、大阪の戦で徳川がこれを継ぎ、太平の世とはなったのである。然るに、忍者の上野は毎日のように江戸城の周辺をさまよう忍者の癖は抜けず、神出鬼没であった。この頃、伊賀者求地といって(徳川が戦の頃に敗れて身一つとなった時に、服部半蔵の手引きで伊賀の忍者の助力を受けたことから徳川では、伊賀者を江戸の夜の守りにあたらせていた。忍者を身分の低いままで置くのを気遣った徳川がこれを取り立てる法として伊賀者忍者に求地願いを出させた。ところが、伊賀者でも徳川に何ら尽くすどころか背いた者や、甲賀その他の忍者が伊賀者らしく願書を出しているのに気づいたがその識別は難しく手こずってしまった。本物の伊賀の忍者はそのままの低い身分で満足しているのだから願書を出してこなかった。
 上野はこれらとは全然異なる豊臣方の伊賀の流れをくむ忍者の先導者で、こんなことには関係なく、彼は江戸城周辺の事や大小名、旗本のことなどを探っては権左エ門に通じていたのである。貯えも少なかったが、仲間に無心されるたびに分け与えていたので、常に懐は寂しかったと云う。この忍者が老いて竜変して、竜巻の空へ昇る様は、黒雲を巻き起こし壮絶を極め、その下る時の凄まじさは天蓋を爪で破り食いかからんかと思われる。武人と云えども身を縮ませたと云われる。然し普段のなりで子供を抱く時などは翁の面の如くにこやかに見え、田柄界隈の人たちは、高砂風の爺と呼び、忍者であることなど知らなかったと云う。
 この忍者は、110歳位になった頃は痩せ細り、白竜忍者とも呼ばれ、白い髭に黒装束のいでたちは夜目にも恐ろしかった云う。彼が江戸のここかしこへ現れるので、大小名や旗本八万騎の心胆を寒からしめた。まったく一生かかって忍者の境涯を止めたのは、3代将軍の何年何月何日であったか、その死んだ時も判らず、4代5代将軍の頃にも現れたと云うが、彼はそれほどの長命は保ち得なかっただろう。1度見た人がまた夢に見たとすればそれでも良い。
権左エ門が行堂の北へ建てた家は、伊賀の住まいから見れば小さいが、近くの豪農の家などと比べ物にならぬ出来ばえであった。彼が大男なためであろう。京間作りで立間も高く間口も広く、これが出来上がるころには伊賀を引き上げ妻子が来たので手入れも届き、檜の香りが高かった。
 丑年の地検に役人は彼の家を宿に定め、折しも極寒であったので毎夜燗鍋(酒の燗をする鍋)で酒を温めて勧めた。若いころの群雄割拠の話や藤堂家で高虎に仕えた頃の武勇談、大阪城の戦に破れたのを心外に耐えぬと語るとその役人も大阪方だったと明かし、在りし日の武勇談に花を咲かせ、互いに夜の更けるのを忘れた。
権左エ門が若い頃から肌身離さず持ち、千軍万馬の中を安泰に守って下さった伊賀の神明様を、具足びつから出して見せると役人は神明様を祭るようにと燗鍋形に土地を計り出してくれた。その人の名は、和田好算とか云うらしい。彼は算学の家に生まれ、毛利重忠(秀吉の命で中国で割算を習い、帰った時には豊臣は滅び、大阪で割算指南所を開いた和算の始祖)をこの燗鍋の地に祭ったのが今も残る神明様(天祖神社)の北東の家、世の人、神明山の権左エ門と彼の家を崇めていたという。
 更に上野と相良が木曽から持ってきた阿弥陀様を祭ろうと行者に計った。行者の墓所のそばにハンの木が生えた細長い土地を施して貰い、ここに小さい阿弥陀堂を建て上野の墓所とした。場所は愛宕の宮の富士で地蔵堂の西へ300歩、神明様から東へ500歩の位置、地蔵堂は慶応の頃はガランとした空家で明治の始めには土台石が残っており、明治40年頃まで大きな石地蔵が建っていた。

〜 完 〜

 

後記:

この物語は、昭和40年10月に、田柄に数多くある上野の家の中でも当時長老格であった上野謹五郎氏が、これまで語り継がれてきた田柄「上野家由来話」を綿密な調査のもと再構成したものである。
一部読みづらい文章、「ホンマかい」と突っ込みたくなる内容も散見するが、ご容赦戴いた上、物語として楽しんでいただければ幸甚です。
なお、同氏作による上野家の「祖先賛家(歌)」という歌もあるが、ここでは割愛させて戴くこと、ご了承の程お願い申し上げます。