「上野家」由来話
- 前編 -

 世に名城として知られている、伊賀の上野城は、天昇13年に筒井定次の築いたものである。後に籐堂高虎が大改修を加えて、金城鉄壁と日本国中に鳴り響いた。
 その頃の話である。籐堂家の大奥の間で若殿と老臣佐柄の対談中であった。ご用ずみになってからご気嫌な若殿は
「佐柄・・其方余に仕え何年になるかの。余ではない先々代より何年前に相成るのか?」
「取って62でげす。15歳の時に先々代様御小姓に上がりましてから、47年になります。先々代様には殊の外の御引き立てを戴きまして・・・」
「わかっている。あの頃はその方も若く千軍万馬の中を華々しく戦い、籐堂高虎の右腕と云われた豪気の父が、権左、権左とお気に入りであったので、お取り立てもしばしばの事であったのう。」
「仰せのとおりでございます」
「最近にありては我が軍の指揮をとり、常に勝ち戦に馴れてか余は其の方の加増を忘れていた。権左、其の方はもう還暦も過ぎて居ろうに、老いてなお盛んにして若者に剣の道を教え、且つ道義を諭すなど良く武士(もののふ)の上にあり、籐堂家の為に守りを致すので、余は満足に思うぞ」
「是はいよいよ恐縮に存じます」
「近頃は時世も治(おさまり)つつあり、下々までも上を真似おごり始めしと聞く。余も酒宴を度々開いて居る。然るに其の方の無骨には酒も女も面白くないにより、酒位はくつろいだが良かろうぞ」
「何と、これは殿のお言葉とも覚えません。高虎様がお聞きになられましたら御家の行く末を案ぜられ、いたくお聡しあるかとも・・・」
「もうよい。余が悪かった」
などと、権左エ門には若殿も苦手であった。
 籐堂家を背負って立つ権左エ門なので、数ある中で彼の様な忠実な民も少なかった。先ず権左エ門の目の黒いうちは籐堂家は安泰であろうと誰もが云っていたので、彼と交じるのは身の栄光とするが、すこぶるつき合いの悪い人柄であった。
上野城を一目見上げるように新しく作った相良の屋敷、其の奥座敷に今日は佐柄権左エ門を招いて、主人相良一郎右エ門は役向の話もすみ、両勇は何やら難しいことを談じ合っている。相変わらず権左エ門は無骨一点張りで、此の長い話に時々ヒビが入りがちであるが、物なれた相良がとりなしては話が続き、どうやらもう一刻(とき)半にもなるのである。これは権左エ門にしては珍しいことで彼の相手をしても半時も続く者がいない。然るに2人の話は近頃一刻以上続くことがしばしばで、今日も話題が続いている。今日は権左エ門が相良エ門を招いたので礼を尽くしては居るが、そのもてなしは極く質素に見せ質の良い物ばかりで取りなし、妻女の外に女を近づけず主人自らがもてなしている。
 何故に此の性格の異なる2人が交わるようになったのか、お互いに考えてみたこともなく、何時とはなく交わりが深くなっていた。これは世間に多い気の合った者同士の交わりと違い、まことに不思議に思われるが、常に互いの意を損ぜぬように心がけてりうのと、先方のくせを受け流し意に同意するのでついに深い仲の交わりに至る生来の性格が立て替えられ2人の良い点を合わせてた人柄に成る。つまり性格の相互折衷に至るのであろう。
 面白いことに、この2人の他に身分は下であるが両家に出入りの多い忍びの者で(服部半蔵とも忍者の反向かい性が元となり忍び仕合いの度を重ねた)若い者で当代右に出る者がいないほどの達人で此の者は代々伊賀の上野に住むところから、自ら上野を号し小柄な上に身が極めて軽く、大きなタコに乗り木曾から三河、尾張、伊賀の空へ行き来をする風業(かぜわざ)の忍者なのである。
 今で云えば、不連続線の上昇気流にのる、つまり水平渦動の根が垂直渦になった竜巻の中心にニカイのぬり傘を両手に水平渦動点で上昇し大空を行き来する。この場合、耳へアメ玉をつめて行う。これは気圧低下に鼓膜の破れぬ為というから素晴らしい事である。
 両者の会合も、この若者のとりもちで行われることが多かった。時には上野を交えての話になると、話題のつきることもなく近頃では3人の会合が度々となって来た。上様を上座に置く御歴々の議事よりも、時世に合い下情にも通じるので両人は益する事が多かった。戦国以来武士の物の考え方が一変して、籐堂家でも家柄や伝統などの古い考えを持つものと、時世に合わせようとするものとの間に対向性が現れて来た。
 3人はこの渦中に陥るようなことはないが、それらの者以外に甚だしい意見の差があるのだ。3人が思うままの理屈を身分に隔てなく丁々と戦い合うのだから、面白いのが当たり前である。権左エ門は飛び抜けてお古い無骨人義野人で、唐天竺にも類の少ない人であった。相良は役柄でもあろうが武人にはまれな打算的な行方をする河師的な面のあるのは、彼の欠点であるが、これがまた、万人に優れた「算学の大家」なのである。上野は一見しておとなしい人柄であるが、彼こそ時代を超越した新しいことを云いだすので、これには2人の者も度し難いことがしばしばでありました。
 この変人の3人がよく話が合うと云うのも、その性質に大いなる差があればこそで、天下の大勢を論じ諸侯の動きを見て計り、かくなればしかじかと3人の論が深まって何時つきるのか計り知ることも出来ない。

 いよいよ大阪の戦が始まろうとする前にあたり、大阪方に組する者と徳川方へ流れる者との色分けがはっきりしてきた。是の定まらぬのは3人寄った時の3人の言い分である。
 相良は時世に合わせて過ごす時期に乗ずるやり方が得であろうと云うことを説いて、2人にも薦めた。権左エ門はこれを聞き入れず大阪方につくのが理の当然であると、人道倫理道徳の道から説いている。上野はこのような対戦に何れに組することも好まない。平時が戦で、戦は只軍配をあげるのにすぎぬ、こんな馬鹿馬鹿しいことはないと云い、世の移り変わりに先立ち平和に向かう項を計り先べんをつけて、更に新たな時代を作るためなら動きもするとて一歩もゆずる気配がない。相良は権左エ門の説よりも上野の説に感動したので、しきりと権左エ門にこれを薦めるが頑として聞かなかった。のみならず、徳川方へ傾く城中の若者を大阪方に引き戻すために説得するなど忙しかった。
 時は日に日に迫り、籐堂家として取る道は権左エ門に引かれることになってきたので、徳川方へ行く者は毎夜城を抜け出すので、数は大分、減ってきたが大阪方に組する論がいよいよ盛んになり固いものとなる。1日も早く大阪城にたてこもろうと意気まくようになった。難色のものどもも今では大阪方にふみきり佐柄権佐エ門に大阪の指揮を申し渡した。既に大阪にたてこもっていた諸侯もこれを聞いて大いに喜んだのである。
 大阪方の多くの人は権佐エ門の指揮なら申し分はないのだが、もしや破れた時に城を枕に腹かっ切ると云う権左エ門に同意する者は極めて少なかった。ことによっては寝返りしてはなどと云う者の多いのには腹立たしくなり。このような情勢を見て権左エ門の腹は決まってきた。やるだけやって勝負にかかわらず大阪を潔く引き上げ、武士の道をたてるとまで云いだした。相良もこれには呆れたが武士道的なので感じ入り、自分も大阪方の勘定掛かりを引き受けることにした。
 然し納まらぬのは上野で「何れにつくも張り合いなし、3人は今夜にも城を抜け出して木曾あたりで情勢を見極めるべし」などと主張したが、相良も大阪方に踏み切るどころか、食料や馬人夫などの指図や金の出し入れなどに多忙を極め、寝る間もないほどであった。(勘定掛かりは、戦の前が極めて多忙なものである)権左エ門は大阪周辺の図面と首引きで戦法を練り、城のそれぞれの部分を考え、これに適合する武者の配備などに多忙を極めていた。この忙しい中にも3人は寸暇をさいて逢っていたらしく、上野は先行して木曾の庵に至って時を待っていた。只時を待つほど間抜けなことなはい。じれったくなったので大乱破を思い立ち、これを開戦と同時に行ったら面白かろうと気づいたので、そまびと(きこりのこと)を数十人集め、三三五五と大阪を指して繰り込ませた。無論、そまびとは戦のためとは知らず、良い仕事があると思い大坂へ着いた。
 まだその頃は大阪城の近くには、林や森には樹木が相当にあったので、その中で値の安い雑木の木立を抜切用として買い受け、此の立木を七分程切り込んでやめさせて置き、そのまま立たせて秋に近づくと8分55厘まで切り込ませ、木枯らし頃になり9分5厘まで切らせ、丸太で支えたり綱を張って止め、木の水分をからしておいて近くの薪屋にゴロで安く売り込み、寒切りで水分のよく切れたのを見せ、半金取って近日切り倒すから引き取るようにと約束した。
 それまでに大阪中にいる野犬を集め、連発式の花火で小筒に似た音のするような仕掛けをつけた。いよいよ徳川方が攻め始めると同時に、犬の尾に火をつけキャンキャン、ワンワンと町を駆けめぐらせ、花火は何百もの小筒に似た音をさせ、綱を引けば大音響と共に次から次へと将棋だおし、暗夜にとどろく地響きの音、怪しき物音に徳川方は、何事が始まったかと立ちすくみ、だんだん近寄ってくる幾多の小筒の音におびえ、全軍がたじろぎ指図もなくだんだんと後ろに引きはじめた。
 この時、城の中から抜刀隊が出てきたので、開戦第1日は大阪方の大勝利となった。
 徳川方は大和路で大阪方を打ち破り、場中に引き上げた大阪方にまたしても城下を奪われた。多大の兵を失った徳川方は全兵力の立て替えをして、車返しで攻めたててきたので、大阪方はまた城中に引き上げ、冬の陣は敗戦となった。
夏の陣の時、上野は黒猫を集め、濡れ雑巾をかぶせボロボロの油綿を付けこれに火をつけたので、火玉が夜の町を駆けめぐりその上、ボロボロの油綿の四散する猫が屋根裏づたいに逃げるのでぼやが始まる。猫は焼け死ぬ前に冷たい縁の下に潜り込むので、上と下から火事が起こり、消しにくいので何百カ所からも同時に火の手があがる。消そうとする人、逃げ出す人とで町は上を下への大騒ぎ。徳川方の士気も乱れ、戦にも気が入らない。上野はこの間に淀川の関へ急ぎ、関守に眠り薬の入った酒を勧め、眠らせ、水門を破ったので大阪の町は、火の海であったのが下から洪水が始まって、火事は消えたが大水の方は出たっぱなし。徳川軍は大洪水の中で作戦に手のくだしようもなく、その上病人が出て大いに支障をきたしたのである。
この大乱破は忍者上野と数人の手下のしたことで、徳川方にとってはとんだ手違いとなったのである、上野はこれは徳川方が火事を起こした上に大洪水を起こしたのだと、言い触らしたので次から次へこでが伝わり、大阪の町人はひどく徳川を恨み、歴史にもそう伝えられている。(これは大阪の町の人に徳川を恨ませれば、徳川が勝っても大阪へ幕府を移させぬためであった)

 夏の陣も緒戦はこのように大阪方が勝っていたが、戦が重なると城に近寄られ、さしもの大阪城も堀を埋められていたために、守る術もなく落城した。相良市郎右エ門は城の落ちる頃には、持ち物をまとめて地下の風穴より、苦心に苦心を重ね場外に逃げ出ていた。そして上野の待っている木曾の阿弥陀堂へ尋ねた。
 上野はこれほどの手柄をたてた事を口にもしなかった。之は江戸に入ってから、なおも徳川に食い下がる下組があるので相良にさえも、何食わぬ顔で過ごした。忍者の恐ろしさはこのような所にあるので、金で買われて仕事をする普通の忍者には、彼の心を計り知る由もない。忍者否忍道と云うのが当たっている。まったく上野のような熾烈な忍者こそ忍道に生きると云うものであろう。未だ戦の最中に引き上げて阿弥陀堂に来て2人を待って居り、相良を南に面した高台に案内して、この高いところから風に乗り三河、尾張、伊賀等への風による飛び方を説明して3日目に東国へ出発した。
 大阪城の大手を切り抜けた佐柄は、武具甲冑を入れる特大の具足びつを階、これに武具を納めた山道に強いという大男に背負わせ、裏道から山道伝いに木曽路へ急いだ。数多い手傷のため歩くにもやっとで、上野の先行している木曾の仲山の阿弥陀堂へたどり着いたのであるが、2人は昨日東国をさして出発したというので休む間もなく後を追った。
 2人に追いつくまでの権左エ門と郎党の山道の苦難と云ったら、例えようもないものであった。具足びつは郎党に背負わせているので、身は槍の穂先を外した柄にすがり、坂道にかかると、重い具足びつの後ろを押し上げるようにして、喘ぎ喘ぎ2人を居った。いよいよ険しい坂道になり、爪先立ちで登るような難所にかかると、権左エ門の気力も衰え、心にもなく具足びつつへしがみつく事が度々となり、その都度郎党はヨロヨロして背腹切って登っていく。これを繰り返されると山に強く荒男でもくたくたになり、
「重いものだけでも捨ててしまっては・・・」と郎党が云い出す。
「武士に鎧兜がなければ生きている張り合いがない。お前が鎧を捨てたらその場で切腹する」などと云う。
郎党も仕方なく、重い具足びつを背に登っていく。
然し、権左エ門とても思いやりを知らない人ではなかった。険難の金奉山の中腹を通るときには武具を諦めて捨ててしまえと云い出した。その時はもう下り坂にさしかかっていたのでもしや足でも滑らせて谷底に落ちると、命が危ないので郎党の身を案じたのである。
 彼はもう下り坂へ来たので何とかやり通しますと言い切ったが、ふらふらとよろけて今にも谷へ落ちるかと思うことが度々で、後を行く権左エ門の方が気が気ではない。自分はどうにか歩けるからなお気になる。下り坂も緩やかに足並みも早くなってきた。もうさして危ないこともない。今まで、命を飲み込むような谷や岩、老木の下を行くのは、国の伊賀あたりでは見たこともない奇観を呈していた。道も緩やかになった。余程気に入ったものと見え、朗々と誌を吟じ始めると、郎党は聞きほれて「お歳をとってもお武士は良いものです。谷の向こうでもやまびこが歌っている。谷の水も音を合わせていますよ。ほら、笛のように鳴く鳥も歌に合わせてお先をつとめ、枝から枝と道案内をしています。私は先立ちの付いたお供は初めてで良いものどすなぁ」などと喜んでいる。
 権左エ門はすぐる日の戦、その敗戦も忘れ老いの身に笑みを浮かべ、足に任せての旅はまた格別らしかった。

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